小說(2019年作)

どの年も違ふで賞

公開:2022年5月8日

初版:2019年1月5日

著:絲

適用:CC0[著作權抛棄]

附錄:『どの年も違ふで賞』後書

注意事項

本文

 私は|炬燵《こたつ》で|蜜柑《みかん》を剝いてゐた。

「……」

 彼は默つてゐる。

「……」

 彼は默つてゐる。

「……」

「トイレ」。彼はわざわざ口にして、立上がつた。「ドア閉めて」。廊下と居間の間の戶が少し開いてゐる事を|咎《とが》め、彼はばたんとそれを閉めた。

「……」

 私は炬燵で蜜柑を剝いてゐた。

 ぴよぴよぴよ……。

 今日は寒い。

「おやすみ」

 蒲團の中は、いつも同じ匂ひがする。彼のコロンの匂ひだ。大して若くも、お洒落でもないくせに、彼はさういふところに氣を遣つてゐる。私はこれを吸來むと、いつも眠くなつてしまふ。

「グー」

 鼻に掛つた|鼾《いびき》は、厭にうるさかつた。私自身は、今の今まで、彼が熟睡したところをちらとでも見た事が無かつた。……これが“熟睡”してゐるなら、だが。ツンと、指先で腰のあたりを突いてみたが、何の反應も無かつた。私も背を向けて寢る。蒲團は廣く、厚く、奪ひ合ひにはなりさうもなかつた。

「……」

 翌朝、味噌汁を搔き込み、背後で洗ひ物をしてゐる彼を|餘所《よそ》目に、私はさつさと支度を濟ませた。後三十分で電車が出る。玄關で|靴《ブーツ》に足を踏入れた時、私の|中《どこか》に、陰が差した。そのままでいいのか。いつものナレーションが、私を叩き出してゐた。——いいの、だつて、又逢へるし。

「今日は特別なんかぢやなかつた」

 私は言つた。

「雀はちゆんちゆん鳴いてるし、飛行機は今日も飛んでゐて、コンビニは變らず『いらつしやいませ』つて言つてる。ご飯が無料になる事は無いし、どこかで飢餓は起きてゐて、野生動物は狩りを休んだりしないの」

「……動物は、今頃冬眠してるよ」彼が、手を拭きながら玄關までやつて來た。手は眞つ赤だつた。

「冬の動物だつてゐるでしよ」

「……ゐないよ」彼は考へる素振りをして、言つた。

「ねえ知つてる。|蒲公英《たんぽぽ》は冬でも生えてるの。寒い時は——夜は莖をかう、地面に這はせてね。まるで本當に寢るやうにしてるのよ。それで晝間になると、起き出すの。知つてる」

「知らない」

「今の仕事始めるやうになつてから知つたの。あなたは步いて出勤するなんて馬鹿々々しい、つて言つたけど、ほら、色んな發見があるのよ」

「下らない。寒いだろ」

「寒いけど、面白いな、變だなつて思ふの」

「ふうん。それで」

「自然界には、休日も、特別な一日も無いつて事。氣附いたの」

「それで」

「つまり、今日は何でも無い一日。皆は家族か戀人揃つて初詣で。あるいはゲームでもしてごろごろ。お正月氣分。ブラックフライデー。あなたはお年玉もらつた?」

「まだだよ。つーか、正月出勤も無いし、何ももらへないよ」

「さう」

「早く行けよ。遲刻するぞ」

「さうね。

 ——今日は何でも無い一日」

「まだ氣にしてるのかよ」

「だつて」

「逢ふなんて、いつでもできるぢやないか。こんな糞寒い中。しかも早朝。馬鹿だ」

「でも二千十九年の、お正月は、一度しかないのよ」

「どの年も同じさ! ——きみも、さうなのか? “平成”最後のうんたらかんたら。下らない!」

「でも」

「いいから、歸れよ。ほんとに、間に合はなくなるぞ」

「私、セックスはしてくれると思つたのに」

「……」

 これには彼も答へなかつた。

 今ここで絡み附く事もできた。けれど、彼は許さないだらう。腦は吿げてゐる。彼から求めて來た事は無い。悔しかつた。憎らしかつた。「……したいよ」「間に合はない」

 さうだね! 間に合はないね!

 終ひには泣いてゐた。彼は見守つてゐた。

「次、いつ逢へるの?」

「知らないよ」

 ——ズキュンとそれが胸に突刺さり、吐きさうにもなつた。さう、さうだ——前の彼氏どもがさうだつた、「いつ逢へるの」「わからない」つて——いつもそれが最後だつた。深く埋込まれてゐる。だからもう戀なんてしない、こんな切ない關係になんかなつたりしない、さう思つたりしてゐた。だのに。

「性慾が無いの?」

「馬鹿にしてるのか」

「してないよ」

「とにかく、歸れよ」

「そんなに……」

 そんなに私を歸したいの、ぢやあ何で呼んだの、わけが解らなかつた。私たちがやつた事。ただ炬燵で飯を⻝つて、一緖に寢て、それだけぢやない。何も特別な事なんて無かつた。何一つでさへ!

「きみは世間の事なんて氣にしないと思つてた」

「——だから、クリスマスもお正月も無視するつて? 無理だよ……私」

「ぢやあ」

「「お終ひだな」」。考へがハモり、落ちた。「もう間に合はないよ」發車時刻十分前だつた。

「何がしたいんだ?」

「セックス」

「……」

「別にクリスマスでもお正月でも何でもいいの、きみと逢つてゐる時がクリスマスでお正月で、誕生日なんだから」

「きみは烈し過ぎる」

「きみは消極的過ぎるよ」

「……間違つてる」彼は言つた。「それを望むなら、相手を間違つてる」

「でも、だつて、今好きなのは、きみしかゐないんだもん」

「それを言ふなら……」

 彼は頭の後ろに手をやつた。

 私たちは居間に戾り、彼が淹れてくれたココアを飮んだ。炬燵の中で脚を|突《つつ》き合ひながら、次の發車時刻まで時間を潰し、私は、歸つた。

 そして四月に到る。私たちの|姬始め《しやうぐわつ》は、いつも遲い。

 私は手帖のHの文字を塗潰し、新たなアルファベットと共に、きみの名前を書入れた。——今年は、受賞できるといいね。

📚 gemini://sinumade.pollux.casa/kimitin/2019/7.gmi