どの年も違ふで賞
公開:2022年5月8日
注意事項
- 成人対象 — 二十歳以上の読者を対象とする
- 小説(フィクション) — 実在の事柄とは関はり無し、描写中の行為を奨めるもので無し
- 性描写 — 性に関はる話題を含む
本文
私は|炬燵《こたつ》で|蜜柑《みかん》を剝いてゐた。
「……」
彼は默つてゐる。
「……」
彼は默つてゐる。
「……」
「トイレ」。彼はわざわざ口にして、立上がつた。「ドア閉めて」。廊下と居間の間の戶が少し開いてゐる事を|咎《とが》め、彼はばたんとそれを閉めた。
「……」
私は炬燵で蜜柑を剝いてゐた。
ぴよぴよぴよ……。
今日は寒い。
「おやすみ」
蒲團の中は、いつも同じ匂ひがする。彼のコロンの匂ひだ。大して若くも、お洒落でもないくせに、彼はさういふところに氣を遣つてゐる。私はこれを吸來むと、いつも眠くなつてしまふ。
「グー」
鼻に掛つた|鼾《いびき》は、厭にうるさかつた。私自身は、今の今まで、彼が熟睡したところをちらとでも見た事が無かつた。……これが“熟睡”してゐるなら、だが。ツンと、指先で腰のあたりを突いてみたが、何の反應も無かつた。私も背を向けて寢る。蒲團は廣く、厚く、奪ひ合ひにはなりさうもなかつた。
「……」
翌朝、味噌汁を搔き込み、背後で洗ひ物をしてゐる彼を|餘所《よそ》目に、私はさつさと支度を濟ませた。後三十分で電車が出る。玄關で|靴《ブーツ》に足を踏入れた時、私の|中《どこか》に、陰が差した。そのままでいいのか。いつものナレーションが、私を叩き出してゐた。——いいの、だつて、又逢へるし。
「今日は特別なんかぢやなかつた」
私は言つた。
「雀はちゆんちゆん鳴いてるし、飛行機は今日も飛んでゐて、コンビニは變らず『いらつしやいませ』つて言つてる。ご飯が無料になる事は無いし、どこかで飢餓は起きてゐて、野生動物は狩りを休んだりしないの」
「……動物は、今頃冬眠してるよ」彼が、手を拭きながら玄關までやつて來た。手は眞つ赤だつた。
「冬の動物だつてゐるでしよ」
「……ゐないよ」彼は考へる素振りをして、言つた。
「ねえ知つてる。|蒲公英《たんぽぽ》は冬でも生えてるの。寒い時は——夜は莖をかう、地面に這はせてね。まるで本當に寢るやうにしてるのよ。それで晝間になると、起き出すの。知つてる」
「知らない」
「今の仕事始めるやうになつてから知つたの。あなたは步いて出勤するなんて馬鹿々々しい、つて言つたけど、ほら、色んな發見があるのよ」
「下らない。寒いだろ」
「寒いけど、面白いな、變だなつて思ふの」
「ふうん。それで」
「自然界には、休日も、特別な一日も無いつて事。氣附いたの」
「それで」
「つまり、今日は何でも無い一日。皆は家族か戀人揃つて初詣で。あるいはゲームでもしてごろごろ。お正月氣分。ブラックフライデー。あなたはお年玉もらつた?」
「まだだよ。つーか、正月出勤も無いし、何ももらへないよ」
「さう」
「早く行けよ。遲刻するぞ」
「さうね。
——今日は何でも無い一日」
「まだ氣にしてるのかよ」
「だつて」
「逢ふなんて、いつでもできるぢやないか。こんな糞寒い中。しかも早朝。馬鹿だ」
「でも二千十九年の、お正月は、一度しかないのよ」
「どの年も同じさ! ——きみも、さうなのか? “平成”最後のうんたらかんたら。下らない!」
「でも」
「いいから、歸れよ。ほんとに、間に合はなくなるぞ」
「私、セックスはしてくれると思つたのに」
「……」
これには彼も答へなかつた。
今ここで絡み附く事もできた。けれど、彼は許さないだらう。腦は吿げてゐる。彼から求めて來た事は無い。悔しかつた。憎らしかつた。「……したいよ」「間に合はない」
さうだね! 間に合はないね!
終ひには泣いてゐた。彼は見守つてゐた。
「次、いつ逢へるの?」
「知らないよ」
——ズキュンとそれが胸に突刺さり、吐きさうにもなつた。さう、さうだ——前の彼氏どもがさうだつた、「いつ逢へるの」「わからない」つて——いつもそれが最後だつた。深く埋込まれてゐる。だからもう戀なんてしない、こんな切ない關係になんかなつたりしない、さう思つたりしてゐた。だのに。
「性慾が無いの?」
「馬鹿にしてるのか」
「してないよ」
「とにかく、歸れよ」
「そんなに……」
そんなに私を歸したいの、ぢやあ何で呼んだの、わけが解らなかつた。私たちがやつた事。ただ炬燵で飯を⻝つて、一緖に寢て、それだけぢやない。何も特別な事なんて無かつた。何一つでさへ!
「きみは世間の事なんて氣にしないと思つてた」
「——だから、クリスマスもお正月も無視するつて? 無理だよ……私」
「ぢやあ」
「「お終ひだな」」。考へがハモり、落ちた。「もう間に合はないよ」發車時刻十分前だつた。
「何がしたいんだ?」
「セックス」
「……」
「別にクリスマスでもお正月でも何でもいいの、きみと逢つてゐる時がクリスマスでお正月で、誕生日なんだから」
「きみは烈し過ぎる」
「きみは消極的過ぎるよ」
「……間違つてる」彼は言つた。「それを望むなら、相手を間違つてる」
「でも、だつて、今好きなのは、きみしかゐないんだもん」
「それを言ふなら……」
彼は頭の後ろに手をやつた。
私たちは居間に戾り、彼が淹れてくれたココアを飮んだ。炬燵の中で脚を|突《つつ》き合ひながら、次の發車時刻まで時間を潰し、私は、歸つた。
そして四月に到る。私たちの|姬始め《しやうぐわつ》は、いつも遲い。
私は手帖のHの文字を塗潰し、新たなアルファベットと共に、きみの名前を書入れた。——今年は、受賞できるといいね。